風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

Bと飲みに行った

 1年ぶりくらいに高校からのつきあいであるBが飲もうと誘ってきたので、自分の事務所のある半蔵門の駅の近くにある焼鳥屋さんで飲むことにした。飲み始めるやいなや、愚痴の竜巻、不満の土石流で、彼は注文したものをほとんど食べないでただただ嘆き続けていた。彼の中学生の息子が硬球の野球チームに入ったと言うことでそのつきあいでグランドの整備やらスコアブックの記録やらをいろいろやっているらしいのだが、その野球チームの父兄とどうも心が通い合わずに、自分が場違いな気がしていて、うまくなじめずにストレスがたまっているのだということが彼の言いたいことだったと思う。どうやら最近職業の適性検査というものもおこなったらしく、それによるなら、今彼がやっている仕事は彼には向いているのだけれども、彼の1番やりたいタイプの仕事とは合致していないのだという。その検査結果はともかく、そういう職業の適性検査を受けて第三者的な意見を求めてしまうという心の状態は、決して健全な状態とはいえないと思うので、なんだか可哀想ではある。が、まあ、ぶっ続けで2時間半ものあいだ、ひたすらに彼の苦しみを聞いて「大変だねえ」「そりゃ面倒だねえ」と言っているのも、別に心にもないことを愛想で言っているのではないにしても、なんだかくたびれてきて、後半は彼には悪いのだがあくびが止まらなかった。が、俺があくびを連発していてもまったく意に介さずに言いたいだけのことは言って帰らないと元が取れないとでも言うのか、それならば解散する前にもっと話しておくぞとさらに気合いを入れるありさま。ちょっとひどい扱いではあるまいか。

 俺もたまに愚痴を言うことはあるのだけれど、ほとんど、迷惑だなあと思う人の話を嫁に聞かせてみて「それは迷惑な人だね」と、自分の感じ方が第三者的に見て不条理でないことを確認するにとどまるので、ましな方ではないかと訴えてみたい。俺は自分の感じ方というものの公平性に全く自信がなく、むしろ自分は人と比べて変わっていると思うので、もし自分の感じ方が不当であるようならば新しい意見を取り入れて新しい見方を採用したいと思っていて、そういう意味でこれは愚痴のようなかたちをしているけれど、建設的な気持ちも1/3くらいはまじっているつもりだから、これはそんなにひどい愚痴ではないのだと自己弁護。

 自分がひどい目に遭っている話というのは、よく昼飯でつるんでいるKもしてくれる。彼が俺に求めるのはそれをおもしろがることくらいで、同情して欲しいという気持ちはまったくないように思う。

 話を戻すが、自分のやっていること、自分の状況に納得しておらず、本来なら別の自分でいたかったという怨念のようなものを抱えている人たちはところどころにいるような気がする。
 そういう人の背中からは煙のように黒いもやもやしたものが、のべつ立ち上っている。
 そういう人たちに俺が勧めたいことは、本来の自分がなんなのかをしっかり考えてみて、それに今から近づけるかをしっかり見つめることだ。近づけるのなら、近づくことによるいろいろな問題を受け入れる覚悟があるのなら、そこに進めばいいと思う。近づかないことにするのなら、これはどうにもならないことだ、とあきらめてその怨念は成仏させてしまうことだ。
 悩んだり、恨めしく思ったりしても仕方がないことは、はじめからやらない方がいいに決まっている。
 それでもそうせずにいられない人がこの世にいることは知っているのだが、そういう人たちから見ると俺はひどく冷淡に見えるらしく、ひどいときにはサイコパス呼ばわりである

 森見登美彦という作家が下のような趣旨のことをどこかで言ったらしい。

 

 悩みなんて、
 どうでもいいことか
 どうにもならないことのどちらかだ
 いずれにしても
 悩むだけ無駄なのだ

 原文を見つけたらこのブログにあげます。