風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

認知

認知、というのは、何かは何かであると、二つのものの間にイコールをいれることだ。

学校=牢獄

とか、テレビゲーム=子供を駄目にする悪いもの

中国=油断ならない国

とかだ。

こういう認知というのは、部屋の温度、腹の空き具合、持っているお金の多寡、痛みのあるなし、荷物の重い軽い、などで変化してしまうように思う。

さきほどまで、あの仕事憂鬱だな、と思っていたことが、少し昼寝してから思い起こすとどうしてあんなに気持ちが重かったのだろう、と不思議になるくらいに見え方が変わってしまうことがある。

つまり認知というのは一過性のもので、真実でも何でもなくて、ただ、そのときの気分というガラスを通して見てみたものにすのにすぎないわけだ。

だからこそ、なんだそれほど心配することはないじゃん、この仕事で、というのも、一種の認知の一つに過ぎないので、結局何が正しいとか考えてもどうしようもない仕方がない。

これは単なる自分の認知だ。と意識して、少し留保して、そのときの感じ方を疑いながら人や物と接していくのが、あとで、ああ、あれはあのときの思いこみだった、と、思い直さなくてすむので、平穏な生活ができるように思う。

=で何かを結ぶのが知識の始まりだと思うし、便利なことが確かに多いのだけれど、それは実は「今そう感じた」にすぎないので、今俺はこう感じているな、と、

しかし、これは本当に難しい。それに味気ない。新垣結衣はかわいいな、と、思ったあとで、と、俺は今思っている、とか考え直すのは普通のことではないよな。