風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

同情を期待しにくい「夫婦」という間柄

大泉洋が自分の「笑い」は夫婦の間では機能しないのだ、と言っていた。

彼の笑いは「文句」や「ぼやき」の中に、その面白みがある。「ふざけんじゃないよ」とか「俺あ、もうやだよ」などのような。演者をひどい目に遭わせて笑いを作るという、藤村Dの作戦が大泉洋のスタイルと見事に噛み合って「水曜どうでしょう」というオバケ番組が生まれた。だが、その笑いのスタイルを家で実行すると、その嘆きや文句は、彼の奥さんにとっては真面目な訴えに聞こえてくるので、そうなるともはや笑えないのだという。

 

結婚する前の方が伴侶が優しかったような気がするという批判はよく聞かれるし、なんなら自分自身もそうかもしれないなと思うことがあるくらいだが、反応が冷ややかになってしまっても実際にはその逆なのだと思う。

「なんだか、最近、人生がつまらない」

と、もしも結婚する前の付き合っている頃に相手が言ったなら

「どうしたの?」

と心配したり、話を聞いてあげたりが自然にできると思う。

が、結婚した後でこれを相手に言われると「あなたと結婚したから」という言葉を、このセリフにつけないで聞くことができない。

なのでつい、自己防衛的になってしまうことがあろうと思う。

「そんなことはないはずだろう。こないだ旅行に行ったばかりだよね」などと言って、相手のその気持ちに寄り添わずに、その感想そのものを否定する方に思わず走ってしまう気持ちが出てくるのもわかる。

「俺が悪いっていうのか!」

と逆上するのは少し気が短すぎると思うが、

「これでも食べたら?」と、ついそれを安易に解決して片付けてしまおうとしたり、「あと2日で週末だから」と、やはりその気持ちを上書きするような発言で相手の心に砂をかけたり。

相手のことが嫌いになったから冷たくあしらっているわけではない。ただ、相手が不幸せそうにしていることに責任を感じてしまうので、同情することができないのだ。それが「夫婦」というものの厄介で微妙なところなのかもしれない、と思った。

相手を責めているわけではなくても、責めているように相手には聞こえてしまう、というのがこの間柄の難しいところ。

「俺に、私に、どうしてほしいの?」

という気持ちで話を聞いているとき、そこに、同情は生まれにくいと思う。同情というのは本質的に無責任なものだから。