風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

パーっと

ツマの職場に天敵のような女がいて、それとの衝突で近頃苦しんでいる。やめてしまえば?ということくらいしかかけられる言葉も見つからないのだが、言葉をかけようとすること自体、本当ならやらない方が良い。何にも意見らしいことを言わずに、黙って聴いていてあげるのが愚痴の聞き方の正解なのだ。

完全な他人ならそれも容易だが、そういう愚痴を言いたくなるような事態に自分も無関係ではないのと、何だか気の毒になってくるので、辞めちゃえば、と、意見めいたことを言ってしまう。

どこにいっても似たような目に遭うので頑張って、働き始めの今を乗り越えるしかないのだとツマはいう。立派な覚悟である。が、同時に、渋々の覚悟でもある。つまりそれは追い詰められた人のそれである。なので、本人は得心していない。自然、少し時間が経つとむし返ってくる。ぐるぐると片付かない。

パーっとしないなー、とツマはいう。

話を聞いても、大したアドバイスはできない。

大抵のことはみんなこうとしか生きようのない人生を、大人も子供も生きているので、話だけ聞いて思いつくことを提案してみても、それができない理由が心情的にあるものなので、こうしたらいいんじゃない、と、言ってもあんまり役には立たないもの。愚痴を聞いてもアドバイスしてはいけない。

それが基本ではある。わかってはいるが身内の愚痴には、なにかしら提案したくなる。俺も一緒にぐるぐるの中に取り込まれていく。

 

ただ人生相談してくるような人は、ぐるぐると考えすぎて客観的に何が正常で何が正当かがわからなくなっていることがあるので、他人に、こうしたら、と言ってもらえると決断の後押しはもらえるのかも。

お、そんな手も悪くないらしい、と、Kくんに相談して今の部門に5年くらい前に俺も移籍したのだった。前のところにこびりついているより、きっと良かったんじゃないかな。

 

コロナ禍、加齢、あがらない給与、頼れないご近所や兄弟、希薄になる人間関係。

パーっとした話を見つけるのが難しいと思う。

Bonfireで人のつぶやき日記を見ると、まあ、そういう趣旨のアプリであるせいもあるが、人の嘆きや愚痴のようなものばかりが目につく。

人に読ませようとしていることにより、私は幸せだ!という書き込みが伝えてくるのはむしろその反対のニュアンスだ。

 

パーっと、するのは、悩みや迷いから解放されて心身共に心地の良い状態だと思う。

掃除に励んで不快な状態を減らそうとしたり、料理をしてみたり、風呂に入ったりするのは、少しだけパーっとなるからだ。そんなところが日常で得られるものの精一杯ではなかろうか。

日常、というものに、俺もそんなに期待していない。無事に大きな問題もなく日々が片付いていけばそれでいいんじゃないかな、とか思う。パキラは枯れず、メダカは死なず、息子は元気。

 

ところで、仕事で嫌な目にあったら、一旦、その嫌な思いから距離を取る手もある。

あー、俺、嫌な目にあってるなあ、と高いところから自分を眺めてみるのだ。可哀想だな、とか思わずに、淡々と眺めていればいい。

うわー、俺、こんなことまで言われてるよ。

と、さらに眺めていると、感情に囚われずに過ごせるようになる。なるのだけれど、実際にはこれは難しい。言われたことに反応するのが普通だもの。俺もまだ入門レベルで、いつもこれができるわけではないが、訓練して何度も試しているうちに次第に上手くなる気がする。

ただ、家族と話している時には、それをやる気がないせいで嫌なことを言われると、ただただ嫌なままである。

 

それから運動するのもいい、と書き加えてから結びたい。

リングフィットアドベンチャーでスクワットをやらされすぎて、足が張ってしまったときは、結構気持ちが良い。ツマは肩こりしたり、腰が痛かったりするので、もっと運動が必要そうなのだが、運動しなよ、と俺がいうと嫌そうにする。

俺もツマに運動しなよと言われると嫌そうにするので、これについてはおあいこだ。