風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

お金について

年をとって欲というものが弱くなってくると、お金の価値がわかりにくくなってくる。若い頃は旅をしたいとか、異性にモテるためにおしゃれをしたいとか、いい車に乗りたいとか、あったかもしれないけれども、お金があっても何に使いたいかというと安心ためにただ蓄えておくだけという感覚になってくる。

お金が価値を発揮するのはもちろん数字として通帳に載っているときではなくて、何か困ったことがあってそれを解決したい時や、欲しいものがあってそれを自分のものにするときだ。

使ってこそ、のお金である。

なので日々の投機で10万円たとえば得しても、その10万円で何かを買い求めたりすることがないので、お金が増えたということからくる興奮のようなものが希薄だ。やったこれであれが買える!というものがないから。

逆に10万円を損しても、それによって買おうと思っていた何かを断念するようなことにはつながらない。なんてことだ、あれが買えなくなってしまった、みたいなやつ。それがないので、こちらもやはりお金がなくなったことで大きく失意しないし、そもそもそういうお金を投資に使うべきではない。

 

買おうとしているもの、が心にないとき、お金というのはなんだか味気ないとわかった。

テスタのように100億の利益を株で稼いだというゲームの達人にとって、買いたいものは大抵買えるけれども、買いたいものも特にない人にとって、お金ってどんな風に感じられるのだろう。

買いたいもののために使われないお金とは、お金を増やすことのためにだけ使われるお金とは、とても特殊な存在だよなと思う。

 

経済的に苦しくて心が渇いていくのはお金がないからだ、と歯噛みするのは悔しいことだ。その一方で、お金があるのに心が満たされない人が世の中には一定数いて、そういう人たちの虚しさや絶望感はより深刻らしい。お金さえあれば、と、そこに希望を見出すことが封じられているが故。

 

お金さえあれば、いろいろなものやことと交換できる。だけれど、こんなところだよなと人生に納得する心は必ずしもそうしたことからは得られない。

あるということのありがたみは、無いことの中に埋もれているからだ。だからなんでもある暮らしの中でありがたみを感じるのは困難だ。ありがたみを感じることが習慣にない人には幸せを感じるのは結構難しいということになる。

裕福であればあるほど幸せなわけでもない。

 

よく言われることなのだが、オレも書く。

多分、幸せとは「これがあって良かった」と気づくことを指す。

そこにしかない。

 

欲望と恐怖を原動力にして発展してきた人類には、実はこれは結構厳しい。もっと欲しい、と、人は発展してきた。もっと安心していたい、と、人は生き延びてきた。

これがあって良かった、と、じんわりしていた種は生存競争では弱かったろう。我々は幸せにならない生き方を選んだ種の末裔なのだ。

野生の鹿とか蝶々の方が、幸せになる才能には恵まれているかもしれない。