どこにいっても何かしらの苦しみはある、とか、そういう意味かなと思っていた、この仏教の用語。
どのような感じを受けようと苦しみの元である、と、四念住の2番目の「受」の内容として説明があった。
それを見て、一切皆苦の解釈をオレは少し間違えていたかもしれない、と思った。
どこにいてもどんなことをしても苦しみはつきものだ、という意味だと思っていたが、もっと残酷で重たい解釈が本来なのかもしれない、と。
苦しみや悲しみはもちろん、苦しみとしてわかりやすい。しかし、嬉しいことや喜ばしいことも苦しみのもとだとする考え方が、本来の意味のような気がしてきた。そしてゾッとした。
うれしいことがあると、人はそれが続くことを願望するし、それがなくなっていくことを悲しんで恐れる。
そして残酷なことに、それはやがて必ずいつかなくなってしまう。そして苦しむことになりかねない。
そうなると喜ばしいことすら、結局、苦しみを生み出す種子になってしまう。
それがゆえに、喜ぶことすら控えよ、と言っているのではないか。
心の動かない人形みたいになってしまう。けれども、サトリの世界というのはその近くにあるような気もする。
喜んだり悲しんだりすることをあまりよしとしない仏教は、心が落ち着いて動じないことをよしとする。
それから、こうだったらいいのに、こうならなければいいのに、と願う気持ちも、抱くべきでないと仏教はいってはおるように思う。
そんなことできるのだろうか、できたとしてそれはいったいどんな気持ちなんだろうか。
オレにはまだまだあれこれ、こうあって欲しい、こうならないで欲しい、という捨てきれない祈りのようなものがある。それを手放したら身体も心も軽くなることとは思うけれど。そういうものをなくしたら、なんだかヒトではなくなってしまうような気がする。
確かに、それらが苦しみの源泉だとたとえわかっていたとしても。
変わらないで欲しいと願う「今」にも、変わって欲しいと念じる「今」にも、その認知の中には自分の妄想が入ってしまうものだと思う。妄想が入るので、それが本当のありのままの「今」ではあるまい。
仮にそれをわかったとしても、その妄想の部分を洗い流すことは途方もなく難しそうだ。
その先に心の平安がある、と、説く仏教の教えは正しそうな気配がするとしても。