何のために生きるのか

何のために生きるのか。

人に優しくするため、と自分で決めてみた。

家族でも、職場の人でも、全く知らない人でも、相手は誰でも構わない。

自分を犠牲にしたりはしないし、何よりもやったことを相手に話したり、自分で誇ったりはしない。それをした途端に、それは相手のためではなくなる。自分のためになってしまう。すると、それの成否は相手次第になってしまう。

だから、そっと、なんとなく、人に優しくするように心がけながら生きることを、自分が生きる意味にしてみたらどうかと思った。

 

優しさのかたちは人それぞれ。

相手にとってそれが優しさなのかどうかは、気にしない。

 

人のために役に立っている、という気持ちが自分の根っこになる。自分を支えてくれる。たぶん。

仕事の中にそれを求めていこう。やらないとならないのでやる、のではなくて、やることで喜んでくれる人のことを考えながら、その人の笑顔を考えながら、取り組むように心がけてみよう。それが実は、相手のためでなく自分ためになる気がする。

 

喜ばせたい人がいない仕事の時は、機械になったと思って心を石にして働こう。

 

そんなことを意識しながら、年寄りになっていく自分とうまく折り合っていきたい。

リトル・フォレスト 夏秋


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小森という東北地方にある小さな集落で暮らす、都会から戻ってきた女性が淡々と自然の中で自然を取り込んで料理を作ってそして食べる様子を見せる映画だ。自然の圧倒的な美しさが癒してくれる。橋本愛も飾り気のない芯の強い(そして美しい)女性を好演している。テレビもラジオもない。そういう外部の刺激はほとんどない。それでも、夜になったら窓に蛾やカブトムシがぶつかってくる。

俺の暮らしは人工物まみれ。自分で何かを自然の状態から作るということはほとんどない。自然と切り離されて暮らしていることが、心というものを人が無くしていく事になる原因なのではないか、ということを「『普通がいい』という病」という本で読んだばかり。自然の中で暮らすことは不便もあるし心細さもあるし、色々不便だろうとは思うが、何もかも自分でやらないとならない、ということの中に、生きているという実感もあるのかも知れない。

主人公の女の子は、負けず嫌いで自分でやれないと気が済まない、という設定になっている。お金を手に入れて、そしていろいろなものをお金で手に入れていくという暮らしに浸ってしまっている自分は、だからこそか、生きているという感覚を少し感じにくくなっているのかも知れない。

自転車の修理も、料理も、防寒も、とにかく何もかもを、自分一人でやっているという話は少し漫画ちっくかも知れないけれど、そういう暮らしの中に何か自分で全てやれている人だけが味わえる、自分を感じる幸せがあるのかも知れないなと思った。

 

さまざま

息子は土曜日でも授業があるので、俺も5:40に布団から出て朝ごはんを作る。バナナを切ってヨーグルトに載せて玄米フレークをかけたり、ソーセージを焼いてチーズの載ったパンに載せたりだ。

息子が学校に行ったら風呂にはいって、そして布団に再び戻る。熱った身体を冷たくなった羽毛布団が包んでくれる感覚は地上の楽園だ。ミステリと言う勿れの第二回を見る。筒井道隆が女刑事に、どうしたいくぞ!と、厳しくも優しい声をかけるところでまた泣きそうになる。涙腺弱弱だ。

それをみた後で布団の中で寝てしまう。ツマは新しい職場で働くための研修というのに出て行った。妻が新しく働く塾は、講師も事務員も制服が白衣なのだそうだ。

俺が寝ているところの横には水槽があり、ずっと水がチャポチャポいっている。気持ち良い水音とも言えるが、寝ている時には少し問題かも。自転車に乗って走ってたら、マシンガンで撃たれまくる夢を見た。なんだよこの夢。

家の掃除をして、刑事コロンボを試聴する。

もーやんカレーのレトルトを温めてご飯の残りにかけて食べる。もーやんカレーうまい。

洗濯機を回して洗濯物を干した。天気がいいのになにも干してないベランダは耐えられない。

息子が学校から帰ったので、青の洞窟のレトルトのカルボナーラを温めた。ベーコンとタマネギを小さいフライパンで炒めた。それをパスタに乗せて、青の洞窟をかけたらなかなか美味そうになった。

最近遅くまで起きていたせいで寝不足だったのだろう。息子はこたつで寝てしまった。

 

父親から電話してがあり、ズーム会議に入れないので助けてほしいと頼まれた。30分くらいすったもんだして、どうにか解決。

スーパーで鯵のたたきとか、肉じゃがの材料と火を買う。帰宅したら鯵のたたきをボールに入れて、ごま油と麺つゆをかけて冷蔵庫にしまう。

もやしの味噌汁を作った。

晩ご飯は鯵のたたき丼。

 

ツマは疲れていて9:30くらいに床についた。横浜の一鶴という店を予約して明日家族で行こうかと思ったが、工事のために営業中止中だとわかり残念。

新しいフライパンを買った。

終わりの足音

錦糸町に行っているプロジェクトは、お客さんがやりたがっていたことが、あちこちどうにも製品には出来ないことがわかってきて、なんでそんなものを買ったのか、何でそんなものを売りつけたのか、というところで衝突することは必至の様子。我々現場の者どもは、製品で背伸びして精一杯やれることを提案するわけだが、限界はあるし、その限界も大して高いところにはない。

来週、お客さん側のキーになる人が実機を観にくる。今このタイミングでくるというのも遅すぎるのだけれど。これじゃダメだね、と言われれば、プロジェクトの解散にリーチである。一方で、あちこちに問題があるけれど、これでいこう、となれば、あとはお客さんもあきらめて使うことになるわけなので、いずれに転んでも俺としては悪くない。

2月はプロジェクトを畳むための期間になるかもしれないし、或いは、あちこちの傷をあきらめてもらいつつのシステム検討になるかもしれん。結局、新しい傷が色々出てくるだろうことは想像されるので、前者になった方がいいかな、と、個人的には思っている。

 

システム部門が単なるシステムの買い物部門になってしまい、金は払うからあとはやっておいて、というスタンスの企業が多い。そしてそういうところはどこも導入で苦労している。

平塚にあった会社は調達部門が前面にでてプロジェクトをやったので、色々と苦労はしたけれど、大体予定通りに稼働できた。

 

俺の扱っている製品は、そのように調達業務部門がプロジェクトに入らないと導入がむずかしい。それができていないところは、よくプロジェクトが揉める。揉めるとあとで大変なので、社内の営業もあんまりこの製品を売り出すことに積極的にならなくなってくる。

そこで無理に売ろうとすると、また変なお客さんでもいいから売りつけようか、となるので、結局はまた揉めることになる。悪循環だ。

 

大企業のお抱えのシステム子会社は、本業を回すための下僕みたいな位置付けになりやすくて、外のシステム会社に無理をさせたことを成果として訴えるような、頭のおかしいことになっている。

外のシステム会社のいうことをもとに、本業に対しても口を出したり提案したりして、システムによって会社をもっとうまく回せるようにすることが、理想的なのだろうけれど。

大企業のシステム子会社は、作られたものをテストして問題を見つけて指摘するような仕事と、スケジュール管理が仕事になっていることが多い。

 

嫌われる勇気 俺編

仕事が異様に忙しくて、とうとう間違えて二つのお客さんの会議をダブルブックしてしまった。一つの方の会議を欠席することを社内で調整して、なんとかことなきを得たが胃液が逆流しそうになるくらいに調整中はドキドキだった。おれの不参加になった方には、頑張って会議を取り回してもらうしかないのだけれど、もはや、まんべんなく色々な人たちに満足してもらうことはできないな、と、思い知らされた。

金曜日はプロジェクトから17:00にあがるようにさせてもらっているが、これを18:00までに延長できないかと、プロジェクトマネージャから打診された。延長は出来ない、として返事をするつもりだ。これも家庭を取るのか、仕事をとるのか、というよくあるやつになる。これもまた、誰に迷惑をかけるのかを選ぶ話。

夜の8:00を過ぎると眠くなってしまい、仕事のパフォーマンスがさがる。錦糸町でおととい21:00まで会議をさせられた時には、目に見えて俺がぐったりしていたらしい。仕事がつらかったというよりも、肉体的にクタクタだったのだ。もともと遅い時刻に働くのは苦手なのだ。長い時間、働けない。ましてや5:00に起きてしまうこの頃、21:00に働き続けようとしても、もう集中力がもたない。

夜中に平気で働ける人から見たら、怠惰に見えるかもしれないけれど、もうこれは俺から見たら個体差のようなもので、それを乗り越えろと言われても弱ってしまう。体質みたいなものだと周りの人には理解してほしい。

 

こうしたせめぎ合いの中で、一人ひとりが選び取った生き方にあわせてそこに描かれていく人生模様。誰かに嫌われたりすることはあきらめたり、うけいれたりしながら、いつしかそこに描かれている。