午前1時頃に家に電話があった。救急隊員と名乗る男性からだった。母親の携帯からかけているらしい。父親の容態がおかしいのでこれから救急車で病院に運ぶ、とのこと。そのとき「あらゆる救命手当てをして良いか」を確認したいのだという。母親は決めきれなかったらしい。急にそんな質問をされても、起き抜けの頭ではわからない。受話器を持ってきてくれたツマにも聞こえるように「あらゆる救命手当てですか」といったあとで、母親に救急退院の人が電話を渡してくれた。母親は思ったよりも落ち着いていた。そして「どうしようか、苦しんだら可哀想だし」と言っている。
結局「あらゆる救命手当てをしてもらう」方を選択。
「こちらを選んでおけば死ぬこともなかった」と悔やむのがこわかった。父親が搬送される病院が見つかったので、救急車は家を離れた。
オレはいったんやれることが何もなくなった。ツマは、こんなことを教えてくれた。
あらゆる救命手当てを選ぶと人工呼吸器のようなものをつけられることがある。それをあとからはずすとなると、それは「殺人」になってしまうので、もう後戻りが出来ないのだ、と。
やれることもなくなり、あとは連絡を待つばかりとなった。
「Yさんは知っているのかな?」
とツマが妹の名前を言った。妹は両親の近くに住んでいる。深夜だったが緊急事態なので妹に電話した。彼女はこのことを何も知らなかった。オレは病院の名前を彼女に教えて「行ってやってくれ」と言った。母親も一人では心細いだろう。オレも行ってあげた方がよいかもしれなかった。これも迷った。しかし、駆けつけるにはその病院は少し遠すぎた。妹は「わかった。行ってみる」と言って電話を切った。
父親が死んでしまうかもしれないんだな、と思った。心の準備は全然整っていない。先週は元気に話していたのに。俳句の会の「同人」というのに選ばれたのだと喜んでいたのに。父親の子供の頃の想い出が、ふわふわと心に浮かんで消えていく。
もちろんなかなか寝付けなかった。妹に「母親と合流できたか?」とメールしたが返事がない。2時半頃に「おとう、大丈夫」というメールが妹から来た。ほっとした。ツマにも伝えようかと思ったが、寝ている気がしたので、そっとしておくことにした。翌朝の6時半頃に妹に電話してより詳しいことを教えてもらった。おつかれさまだ。
寝不足で頭がまとまらなかった。仕事なんて出来る気がしなかった。なんで年末だというのにこんなに仕事があるんだ? もともと、こんなに年末まで仕事をやることになっていなかっただろ、と不満を抱き始めたなら、その不満の炎の焚き付けに困ることはなかった。睡眠不足のせいで悲しみに心が浸かっていた。つまみ出すと、悲しみが滴るくらいに。
家を出ると少し不思議な感じがした。目に見えるもののいろいろな景色に、サインペンで黒く縁取られたようなものがあるように感じるようになった。完成した塗り絵のように。死はすぐ近くに。そう体感すると、こういう見え方なのかなと少し思った。
結局、父はインフルエンザが引き起こした心不全だったらしい。救急車を呼んだ母親の判断はファインプレーでそれがもっと遅れていたら脳に障害が残ったり、死んでしまっていたかもしれないらしい。父親は呼吸が苦しそうだったり、立とうとして立てなかったり、というのを見かねて母親が救急車を呼んだわけだが、父親はその呼吸が苦しかったときのことをまったく覚えていないらしい。死にそうな目に遭っているときのことは、以外と記憶に残らないらしい。
今は意識がちゃんとしており、病院で冗談のようなことを話しているらしい。