風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

「違う」が、嫌い

「このヘッドフォーン、さっきのと全然音が違いますね」

のような言説が嫌いだ。

「違う」というのは、良くなっているのか、悪くなっているのか、どちらにも取れるからだ。なので自分はこの言葉はなるべく使わないように注意している。

「違う」と言いかけたら思い直して、そして「よくなっていますね」と別の言葉を選ぶようにしている。そんなの文脈とか雰囲気とかでわかるじゃん、という人もいるだろうし、実際にそうなのだけれど、それでもそんな「わかる」という感覚も自分のそれについては疑ってしまう。絶対にそうとはいえないのだから。

だからテレビの食レポを見ていても「あー、全然違いますね」という人を見ると少し腹が立つ。仕事、ちゃんとやれよ、と思う。

「あー、歯ごたえが軽くなっておいしく感じますね」などのように表現する人を見ると優秀だなと思う。

 

「ちょっと待ってください」

という言葉も嫌いだ。

ちょっとは、30秒のことも、5分のこともあるからだ。10分の場合すら。

大体、自分の「ちょっと」は1分くらいなのだが、待たされる側はそんなことはわからない。なので人に待ってもらうときには「3分待ってください」とか「10秒」などのように、どれくらいなのかを計測できる単位にして伝えるようにしている。待たされる側もストレスが違うのではないか(と、自分は勝手に思っている)。

 

こういう言葉を選ぶ感覚は聞き手に対する親切心の問題だと思う。それから言葉が誤解を生むことに対する無神経さの問題だとも思う。

どういう風にでも解釈できる、という言葉は詩人にでもまかせておくべきで(光源でいうと行灯型)、我々は会話するときには解釈の広がりが狭い言葉を選択(光源で言うとレーザービーム型)するようにしたいと思っている。

いろいろな解釈ができる言葉を選んでしまって誤解を招いたら「ごめんね」と自分が謝るし、できるだけそうならないようにしたい。