風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

金魚2

前に書いてから、また金魚に出費。

水槽が安定してきて死亡率が下がってきたので、1匹380円のコメットという金魚を2匹追加。

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それから、水槽の掃除屋といわれるタニシを3匹。1匹30円。

タニシが蓋をして閉じこもり出したので水質不安が浮上。エアーを購入。1500円。それから、水が酸性に傾いていることを懸念して、牡蠣殻というのを900円で購入。水に沈めると水を弱アルカリ性にするのだという。

タニシも何となく元気になって蓋を開けて、水槽のヘリにくっついて幸せそうである。

飼育してるものよりも設備の方に金がかかるという、これがペットという趣味。

 

ペットを飼うとモノを言わない生き物の気持ちを色々と先回りして考えなくてはならず、頭のいい刺激になる。だから、モノを飼育するのはボケ防止になるとか。それから、相手のことを考えることになるので、少しだけ優しさが育まれるかもしれない。

犬を飼う人に悪い人はいない、とか、そういうのは信じないけれども。

 

小さな感動

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一ヶ月くらいかけてMさんに説明した製品と設計。それが夏の出来事だ。それをもとに彼女がお客さんに、製品について我がことのように説明してくれている。設計は俺が考えたものだ。それが今、別の誰かによって説明されている、というのは、この仕事冥利の快感であった。これまで経験したことのない感動のようなものが、暖かく俺の心を濡らした。

人生の結論

 

人生の結論 (朝日新書)

人生の結論 (朝日新書)

 

小池一夫氏のツイッターが好きで楽しく読んでいたのだが、半年くらい前に他界してしまった。その小池ロスを埋めるためにこうして、これの考えについて書いている本を買って読んでみたりしている。

人付き合いについて、仕事について、どういう心構えでいれば「軽やかに」生きていけるのかについての小池一夫の考えが書かれている。なるほどなあ、と思うものが多いし、その通りだよねと共感するものが多い。

面白いと思ったのは、小池さんがツイッターで得た一般の反応についてだ。いろいろとネットを見ていると人の幸せをひがんだり、うらやんだり、それから、ちょっとしたことで自分を不愉快にしている人が多いらしいということだ。

ネットのせいもあると思う。人を自分と比べて、そうして自分を幸せにしたり、不幸にしたりするという心理パターンが昭和の頃よりも多くなったと思う。自分は昭和の貧乏な子供で、ランドセルも新しいのを買ってもらえずに、新入生の時に自分だけピカピカのランドセルではなかった。が、うちは貧乏だから仕方がないのだ、と納得したし、人のをうらやましいとは思わなかった。マグネット式の蓋になっておらず、革紐をフックの金属穴に通すタイプだった。1つ前の時代のものだが、こんなものを使っている人は誰もいないことを逆に面白く思った。

人と自分は違うものだし、それは別に恥ずかしいことではない、というそういう時代だったのではないかと思う。

人と自分を比べることをあおるメディアもネット記事も多い。そういう人と比べる気持ちを刺激することで視聴率を稼げるからだが、そういうものは意識的に避けた方がよいと思う。

チョッキン

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吾妻ひでお、が、2日前に亡くなった。

長いことアルコール中毒だったりして、失踪日記などで乱れた生活が描かれていた。

吾妻ひでお、は、ロリコン漫画の大家としてオタクたちには有名。ナナコSOSが代表作だが、自分としてはチョッキンを推したい。

ヤフオクで1冊700円くらいになってしまい、明らかに元値よりも高いのだけれども、読み直したくて読み直したくて仕方がなかった。

チョッキン、は、お金を貯めることだけが生きがいの少年が、とにかく節約して、けち臭く、そして細かい商売でお金を増やそうとする様を、吾妻ひでおの生き生きしたタッチで描いたギャグ漫画だ。

お金にこだわるというのは度が過ぎるとこういうことだ、という風刺もうすーく効いている。

彼の作品を手に入れた一週間後に、彼の他界を知った。

無為なる日々

なるほど、老人に近づいてくると、何しろ生きる年月が少ないし生活も少し落ち着いてくるので、勉強しようという意欲が減退してくる。目も見えにくくなるし、ものの覚えも単純なものだとなかなか頭に入らなくなってくる。それゆえなのか、週末の過ごし方もテレビゲームなどで息子と時間を潰すような、まさに無為、と言いたくなるような過ごし方になりがちだ。いつの間にやら、パチンコには一切行かなくなったし、行きたいという気持ちもなくなった。

週末や休日の過ごし方はおもに家の掃除という感じになってきているのは、掃除はやる前と後で明確に結果が変わるのと、やったあとで気持ちがいいからだ。料理も割と好きだ。だが、勉強っぽいことにはどうも熱意を感じにくくなっている気がする。これではいけないな、と、思うのだけれど、何のために学ぶのかという問いはまさに年寄りのためにこそ重要な問いなのだとわかってきた。仕事に行って帰ってくるだけなのなら、もう週末などに鉛筆舐めたり、理解しにくい本にむきあって頑張ったり、そういうことも必要ないわけなので。

 

老人になってくると、いろいろなことへの欲が減退してきて冷静さが高まってくる。

そう、冷静さを失わせるのは、欲のためであり、欲がなくなれば恐怖も自然になくなってくる。

体がいうことを聞かなくなってくるのだけれども、心がいうことを聞くようになる。

これが老化というものなのか。

若い頃は知識欲も旺盛でいろいろと知らないことはどんどん知りたいという気持ちもあったが、今は、なにかを学ぶのであれば、それはなぜなのか、何のためなのか、ということも書き添えないと体が動かない自分になってしまった。

授業参観

息子の先生は我が家で不人気、どころか、嫌われているに近いと言っても良い。生徒に何かアイデアを求めておいて、意見が求めていたものと違うと、それは違う、と、否定するらしい。なので、お楽しみ会もなくなるし、民の言うことに耳を貸さない専制君主のようになっているようだ。

ハゲなどと家では言われているし、息子が学校がつまらなくなっている理由ともなっている。どれどれ授業参観で実物を見てみるか、いうことで行ってみた。確かに領土が前から侵攻されている。垂らしている前髪の抵抗がほんのり悲しい。

道徳の授業であった。息子は安定のボンヤリぶりで、明らかに授業を聞いていない。

ただ、他の教室と比べてみるとまるでお通夜のようだった。他の教室も同じ教材で道徳をやっている。インターネットの怖さについてやっているわけだが、他のクラスではワイワイとうるさくて賑やかな様子なのに、息子のクラスだけはみんな萎縮している感じだ。先生の満足する答えを探すゲームとなってしまっている。

えーー。

教え方も頭ごなしで、子供らの声を聞く気もちが見えてこない。

 

アンケート用紙があったので忌憚なく書いて改革に期待しようかと思ったが、記名式のアンケートだったのでやめた。記名式にしている時点で批判的な声を聞く気ないのが透けて見える。

想像こそしていたがやはり実物を見てみないといろんなことはわからないものだ、ということを改めて思った。学校に行きたくない、という気持ちに寄り添えるようになった。

あれで学年主任なのだという。生徒を幸せにする先生方出世するとは限らないらしい。

1年後、1年前

毎年思うのだけれど、1年前に今の自分の状態について予想していたかというと、全然予想できていなかった。金魚を飼育しているとか、ねぶた祭りを見にいくとか、プリンターやテレビを買い換えているとか、なんやかんや。つまり、来年の今頃はどうなっているのか、本当にわからないなということである。1年前に思っていたのと全然違う事態が起きるくらいに、1年というのは長いものだということか。

昨年は適応障害心療内科に行って、薬をもらったり、それからうつ病に関する本を7冊くらい読んだ。頭が重くて、なんとも物悲しい。ひたすらに寝ていたい。なにかを面白いと感じる力が減退して、食欲が・・食欲だけは旺盛だった。これもなくなったら本格的にうつ病だったことだろう。

深夜の2時頃に起きてしまって、電気を消した風呂場でお湯にじっと浸かりながら音楽を聴いて、自分がここにいないかの気配を味わうことで、逆に自分の存在を感じてみたり、カラオケ屋で中島みゆきの「誕生」を熱唱して、いつの間にやら涙が出ていたり。あれはつらかった。興味がある人がいたら、このブログの1年前の記事を読んでみてください。

来年の今頃は、こんな楽しい日々になるとは思いもしなかったよ、となるといいなあと思う。まあ、そのためには、実は、毎日の細かい積み重ねが大切なんだろうけれど。