風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

線を引いてみる

午前3:00に草津の宿で目を覚まし、寝ようと試みるもうまくいかず、4:20にあきらめて朝風呂に入りに大浴場へ。一人だけ先客がいた。奥の方の露天風呂に浸かる。相変わらず、とても良い泉質だ。身体がリラックスする。暗闇の露天風呂。雨が降っている。

いつもなら何で3:00に起きてしまうのかと悲しむところだ。が、大浴場を出る時に思ったことは、いつもと違っていた。もうそれならそれで仕方ない、受け入れよう、という気持ちだった。

部屋に戻って考えた。

 

人を苦しめるのは、あーだったらいいのにという欲望や、こーならないで欲しいという恐怖の顔をした、でも結局は欲望だ。欲望とは何かを強く期待することだから、期待しなければ欲望から離れていくことができるのではないか。そして、もっと楽に生きていけるのではないだろうか。

 

心の中で線を引いてみて、自分で結果をコントロールできるものと、そうでないものに分けてみる。

まずは3:00に起きてしまうようになった自分の体質を、コントロールできないものに分類。お天気、人の心、人の行動、経済、低すぎる枕、災害、交通事故、ボーナス、株の動き、などなど。コントロールできない側に置いてみる。

俺を取り巻くもののほとんどが、その結果について制御できないものなんだな、と改めて思う。

多少の働きかけはできるけれど、それが思うような結果を生むかどうかはわからない。世間にあふれるハウツーの本や、ネットの情報は、知識の力でなんとか思うような結果を得ることを実現しようとするものだが、それらは助けにはなるので、それらを増やすことで思うような人生を組み立てられるような錯覚を与えたりもするけれど、その結果を期待することに変わりはないので、あんまり心の健康には良くないんじゃないかな。

じゃあ、自分でコントロールできるものは何か、と考える。あんまりない。それは、認知というか解釈というか、事象に対する心の態度くらいかな。「夜と霧」をちょうど読み終えるところなのだが、収容所でも心を前向きにすることができた人がいたことについて書いてあった。

中村天風も、積極的な心の態度がいい人生の鍵だ、と言っている。

 

何かを変えようとする人は、あるがままを受け入れて生きてある人に比べて、人生の悦びから遠のいてしまう、と、和尚というインドの聖職者は書いている。賢者の言葉を話そう、Let it be とビートルズは歌っている。

身の回りで、起きること、起きていることを変えようとすることは闘いだ。勝つこともある。負けることもあり、負けるとつらい。始めから闘わないという道もある。

 

一方で、それにどう反応するか、悲しんだり絶望したり怖がったり羨んだりするか、それともそれらにたいしても尚、明るい側面を見つめ続けて生きていくのか、については実は選べるのだ。意志の力で。そこを逆にどうにもならない、と思いがちだし、どうにもならないと思っている人は多い。悲しいものを悲しんで何が悪い。嫌なことを言われて怒るのは自然なことだ、など。俺もそうだった。

こんなこと言われたら悲しいのは当然、腹が立つのは当たり前と。

 

口で言うほど簡単に心のクセは変えられないと思う。けれど、身の回りの事柄に対して、線の内側にだけ神経を集中して、さあ、これに対して俺はどのように感じることにしよう、と、都度考えるような習慣をつけたいものだな、と、風呂上がりに暗闇の中で思ったのだった。