厳しい指導を受けたとき、その指導の先にある到達点にたどり着きたいという気持ちが自分にないと、その指導はとてもつらく感じられる。
いい野球選手になりたいという気持ちがない状態で、優れた野球選手になるための厳しい指導をされるのは、とてもつらい。
もしも、野球選手になりたいと思えているのなら、とてもありがたい指導だったかもしれないのだけれど。
啐啄同時である。
この例では、このつらさから逃れる方法はふた通り。
いい野球選手になる気はないのだから、その厳しい指導を受けるところからいなくなることだ。人はなりたいと思うものを目指したらいい。一流の空手家になるためにこれを頑張れ、とか言われても、俺は耐えられる気がしない。
もうひとつある。
心を切り替えて、いい野球選手になることを志ざすことだ。
よしそれならば、と、これを自分がやるべき課題として引き取って、良い成長の機会として取り込んむことを決意するのだ。背中を向けて逃げていたことに対して、くるりと振り返って、もうお前を倒すことに決めた、と、構えるのだ。
相手の指導の仕方がわかりにくかったり、威圧的だったり、そういうことが苦痛の場合もある。ただ相手の言っていることが、覚えるべきこととして正しいようなら、ありがとうございました、と、受け止めたい。
できるようになってしまったなら、そういう苦しみは自然になくなっていく。
今回はこちらを選んでみることにした。
この心境に到達したことで、ようやく月曜日から、前向きに働けそうな心境になってきた。
この歳にしてなお、人生は修行であるなあ。