風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

作為なき処世

夏目漱石の「行人」を読み終えた。

前半は嫂(あによめ)と一緒に一夜を過ごす(もちろん何も起きない)話などで、なんだかおかしな小説だと思っていたが、往々にして名作は後半に一気に面白くなってくるものらしい。主人公の兄がその友人のHさんと旅に行った様子を述べたくだりになると、読む手が止まらなかった。

 

兄さんは純粋に心の落ち着きを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。(行人)

 

最近、自分の周りでも、作為をもっておこなった人間関係への働きかけがほころんだばかりだ。このメッセージを受け取りやすい自分の状態だった。兄さんというのは知性の人で学者を仕事としている。何かを考えて考えて、その果てに人の世に立とうとしている人だ。そしていつしか神経を病み、家族からも孤立していく。

自分はその「兄さん」ほどではないが、同じ方角を向って歩いている同胞だ。

 

彼らは「考える」ためにたくさんの情報を集める。そしてその情報によって神経質になり、情緒を押し殺し、不安定さを増すという悪循環にはまっている。(運は「バカ」にこそ味方する)

 

まるでテーマを申し合わせた二冊の本を連続して読んでしまったようだった。

自然にふるまえ、と言っているのだ。作為を捨てろ、と。

自分が愛読している『老子の道』(OSHO)も、何かを成し遂げようとするな、何かに働きかけるな、と言っている。

夏目漱石の本までが同じようなことを言い出したのには驚いたし、自分はそこにある種の啓示のようなものを感じた。

今日から少し物事との接し方を改めようと決意してみた。

 

人によく思われるにはどうしたらいいのか、人に評価されるにはどうしたらいいのか、そういうことに敏感でそして器用な子供だったが、それを獲得するために得た知識で人の心を自分の都合のいいように操作することに、いつの間にかおごってしまったところはないだろうか。仕事にも、人にも、自分の知識と知恵を注いで、思った方角に誘導しようとはしていないだろうか。

 

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 携帯の待ち受け画面に好きな文字を入れられるようにするアプリがあって、愛用しているのだが、それを使って文字を入れた。この言葉がよく目につくように。

「作為なき処世」と。

どうしたら今よりももっと望む状態に近づけるのか、なんて考えるのはやめたいと思う。ましては計算ずくで何かを期待するのは。

 

とはいえそんな風に「無為になろう」と懸命に意識している自分は、まだまだ無為からは相当遠くにいるのだけれど。