作為なき処世、という言葉を組みあわせてみたら、桜井章一の本に頻繁に出てくる
「期待は病理」
という言葉の意味がいきなり腹落ちした。
期待というのは、たとえば、自分がこれをやったら、きっと誰かが、あるいは特定のその人が、自分にこういうことをしてくれるだろう。
そして、こういう風に思ってくれるだろう、だからこうしておこう、とすることこそがまさに作為ではないか。作為は心の病気の元だというのだ。
こういう見返りがあるはずだから我慢しようとか、こういう風に思ってほしいから何か上げようとか。人を喜ばせるのは本来は褒められることなのかもしれないけれど、人を喜ばせようとすることは作為だということだ。
ただ自分がそうしたいからそうする、を貫いていれば、いろんなことが気持ちよく回り始める、のかもしれない。でもここには難しさもあって、気持ちよく回ることを期待してしまうと、それは元来目指すべきものとは違ってしまう。
期待しない、という意味は、あきらめる、のとも何か違う。
あきらめるという行為が成り立つのは、それは期待の結果だから。
初めからその反応を期待していない動作は、単なる自己表現だ。つまり、今ここにこうしてブログの記事を書いたりしているような、そんな感覚で人や仕事に接すればいいのかな。