風紋

外資系のソフト会社 コンサル職のおっさんの日々

松本人志の事件

えらくなり、チヤホヤされるようになると、もうそれが笑わせる商売にとっては逆に足枷になって、これまでのような笑いがとれなくなる。みんなその人の前で緊張してしまうからだ。緊張しながら笑う人なんていない。

だからある程度売れるようになると、それが理由で人を笑わせることがむずかしくなる。だからネタをやらなくなって司会業務や、審査員や、プロデュースの方に回らざるを得なくなる。

売れても大御所にならないように気をつけないと。ダウンタウンはそれに失敗した。

 

松本人志は急に異様に売れてしまったので、世間の見ている自分と実際の自分の乖離が夥しくて、自分の心のバランスを取るのは難しかろうとも思っていた。だから、私はここにいる、と、錨を下げるような活動が20年前くらいから目立ち始めていた。

遺書という奇を衒ったタイトルの本を出してみたり(遺書ってみんな中身をみたいやろ。みんな買うやろ。俺って目のつけどころええやろ)、大日本人という映画を作ってみたり(この面白さ、わかるやつだけわかればええねん)。

すごいですね、他の人と違いますね、と言われ続けないとならないという気負いが俺には感じられた。

あれは、キツかろうと思っていた。

 

自分への居心地悪さから金髪にしてみたり、肉体改造したり、ありのままの自分で居続けることへの気持ちの悪さが彼のイメージチェンジにはにじんでるなあ、と俺は勝手に解釈していた。

ダウンタウンの名前を使っている番組も、彼らが自分たち自身で笑いを作ることがなくなった。

ただただ何の努力も工夫もしてないのに増え続ける貯金残高は、斬新な精神的な苦しみだと思う。

このお金は何なんだろう、と。

芸能界の女性たちに手を出したり、お金を使って女の子たちを襲ったり、それが法律から見てどうなのか、7年前の事件をなんで今報道してるのか、など芸能界は闇だらけなので良くわからないが、そういう混乱の中でたまっていくお金をばら撒くことが、自分の心のバランスを取る方法のこともあろう。

ZOZOの前澤氏を見ていてもそう思った。そしてその挙げ句が今回報道された事件。

 

自分とはなんなのか、人が見ている自分と本当の自分との違いをどう扱ったらいいのか。メディアに露出する人たちみんなの課題なんだと思う。

 

自分はここまで、とする、引退する勇気と自分を客観視する力こそが、有終の美を飾るためには欠かせないと思う。